859576 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ラ・ラ・ラ・メディテーション

ラ・ラ・ラ・メディテーション

仕事について

「会社に行こうとしているのであれば、会社員
瞑想的に行くがいい。
会社で仕事をしているのなら、瞑想的にやるがいい、
リラックスしてやるがいい。そうすれば、疲れ果てることはない。
すべてを遊びとして受け止めるがいい。
そうすれば、疲れ果てることはない。
逆に、仕事は楽しみになる」OSHO
            
          
           クリシュナ
           クリシュナ・プレムはチベットの山頂に上った時、
           本当にがっくりした。彼はついに彼の真の自己を
           発見したのだった。(上の漫画の日本後訳)


「多くの人びとが働いて、働いて、働き続けて、そしてある日、死んでゆく......というのも、彼らの仕事が創造的ではないからだ。どんなとき、仕事が創造的であるのか? あなたがそれを愛しているとき、その仕事は創造的だ。あなたがそれと調和していると感じるとき、その仕事は創造的だ。あなたがそれを楽しんでいるとき、その仕事は創造的だ。あなたがそれを選び、あなたの実存にぴったりしていて、あなたと仕事との間に偉大なハーモニーがあるとき、仕事は創造的だ。」 OSHO


「仕事は 目に見えるようになった 愛である」 ジブラン


「誰かが生をセレブレーションとして受け止めても、
その人は働くことをやめるというわけではない。
もちろん働くが、その人の仕事は祝祭の一部になる。
セレブレーションの香りを放つことになる」OSHO

「ワークは仕事としてではなく、遊びとして見なされるべきだ。
ワークは遊びとして、ただのゲームとして見なされるべきだ。
あなたはそれについて、深刻になるべきではなく、
ただ、遊んでいる子どもたちのようであるべきだ。
それに意味はないし、達成すべきことは何もない。
ただ、その行為そのものが、楽しみだ」 OSHO


「"人は人生で何かをしなければならない。ある人は大工だし、ある人は王様だし、ある人はビジネスマンだし、ある人は兵士だ。そういったものは生活のための手段であって、パンとバターと住む家を手に入れるためのものだ。それがあなたの内なる存在を変えるということはない。兵士だろうとビジネスマンだろうと何の変わりもない。ある人は生活の糧を得るためにある方法を取ったのだし、別の人は別の方法を選んだというだけのことだ。瞑想は人生であって、生活の糧ではない。それはあなたがすることとは関係がなくて、ひとえにあなたの在り方にかかわっている。ビジネスがあなたの存在にまで入り込むべきではないというのは確かだ。あなたの存在までビジネスライクになってしまったら、瞑想することは難しいし、サニヤシンになることなど不可能だ……なぜなら、存在がビジネスライクになってしまったら、あなたは計算ばかりすることになるからだ。計算高い人間は臆病者だ。あまりに考えすぎて、ジャンプするということができない。瞑想のなかにまで小利口さを持ち込むことはできないのだ。実のところ、小利口さはほんとうは知性ですらない。小賢しさは知性の代用品だ。知性的でない人たちはいかにしてうまく立ち回るかを覚える。知性的でない人たちは賢くならなければならない。彼らは無知なので、ずる賢くならなければならない。彼らは何も知らずに立ち回っているのだ。あなたがビジネスマンだとしても、それはかまわない。イエスが瞑想者になり、サニヤシンになり、最後にはキリストに、ブッダになったのなら……彼は大工の息子で、父親を手伝い、木を切り、材木を担いでいた。大工の息子がブッダになれるのなら、どうしてあなたにできないことがあろうか?" 『Dhammapada: The Way of the Buddha』 第 6 巻 講話 4 」

「創造性 」

創造性とは、自分がしている行動にあなたがもたらす質だ。それはひとつの態度、内なるアプローチだ。あなたがものごとをどう見るかという……。誰もが画家になれるわけではない??また、その必要もない。誰もが画家だったら、世界はひじょうに醜いものになるだろう。生きることなどむずかしくなる。そして、誰もがダンサーになれるわけでもない。その必要はない。だが、創造主(クリエイター) には誰でもなれる。
なにをしようとも、あなたがそれを喜んでやったら、愛にあふれてやったら、もし、やるというあなたの行動がたんに経済的なものにとどまらなかったら、そうであったら、それは創造性にあふれている。もしあなたの内側になにかが、そこから成長するなにかがあったら、もしそれがあなたに成長をもたらしたら、それはスピリチュアルなものだ。創造性にあふれ、神性を帯びている。
創造性が増すにつれて、あなたはもっと神性を帯びるようになる。世界の宗教は口を揃えて、神は創造主だ、と言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っていることがある。創造性が豊かになればなるほど、あなたは神々しくなる。あなたの創造性がそのクライマックスに達すると、あなたの生全体が創造性にあふれるようになると、あなたは神のなかで生きている。だから、神は創造主に違いないのだろう。創造的な人びとは、これまでもっとも神に近かったのだから。
自分のすることを愛するがいい。それをしているあいだは、瞑想的であるがいい。それがなんであろうとも!

Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 4


「行為の中で遊びに満ちていなさい」

 仕事は仕事としてではなく、遊びとしてとらえられるべきだ。仕事は遊びとして、ただのゲームとして考えられるべきだ。それについて深刻であってはならない――ちょうど遊んでいる子どものようになりなさい。その活動に意味はなく、達成されることは何もない――まさにその行為そのものを楽しむ。時おり遊んでみれば、その差を感じられるだろう。あなたが働くとき、状況は異なっている――あなたは深刻で、重荷を担ぎ、責任を負い、心配で、不安だ。なぜなら結果のため、最終的な結果のためにやっているからだ。仕事自体に楽しむ価値はない。実体は、ただ未来に、結果にある。遊びには、まったく結果などない。まさにプロセスが至福に満ちている。あなたは心配していないし、それは深刻なことではない。もしあなたが深刻に見えたとしても、ただそんなふりをしているだけだ。遊びにおいて、あなたはプロセスそのものを楽しむ――仕事においては、プロセスは楽しむものではなく、ゴールが、終わりが重要だ。プロセスはなんとか耐えられなければならない。結果達成のために、行なわれなければならい。もしそれなしでも結果を達成できるなら、あなたは行為をせずに結果にジャンプするだろう。しかし遊びにおいて、あなたはそうはしない。

 ビジネスマンは遊びに満ちていない。そしてもしあなたが遊びに満ちていないなら、瞑想的ではありえない。もっと遊びに満ちていなさい。時間を遊びに浪費しなさい。ただ子どもと遊ぶのもいい。もし誰もいなくても、ひとりで部屋でジャンプし、ダンスし、遊びに満ちていることができる。楽しむがいい。でもあなたのマインドは主張し続ける――「おまえは何をしているんだ? 時間を無駄にしているのか? この時間に何かを稼ぐことができる。何かをすることができるのに、おまえはただジャンプし、歌い、踊っている。何をやっているんだ? 気でも違ったのか?」

 試してごらん。自分のビジネスから抜け出せる、どんな短い時間でも捕まえて、遊びに満ちていなさい。なんでもいい。絵を描いてもいいし、シターラを奏でてもいい、なんでも好きなことをするがいい――ただ遊びに満ちてごらん。どんな利益も期待せず、それについてのどんな未来も思い浮かべず、ただ現在にありなさい。するとあなたは、内側でも遊びに満ちていることができるようになる。そのときあなたは、自分の思考の上を飛び跳ね、それと遊び、あちこちに投げ、それと踊り、でも、それについて深刻にならないでいられる。

Osho: The Book of Secrets から抜粋

ふ
参考資料 OSHOセラピスト「マ・サガプリア」仕事について語る
(フィリ、インタビュウより)
「意識的に生きる(コンシャス・リビング)ということに、私は関心をもっています。長い間、私は瞑想の教師として、またセラピストとして活動してきましたが、そのうちに瞑想が日常の瞬間瞬間、たとえば仕事などの場でどのように応用されるのかということに興味をもちはじめました。家の掃除や、他人とのやりとりの中で起こる機械的な習慣の数々は私たちの人生で多くの時間を占めています。しかし、その中で私たちは「眺める」(やっていることを観照する)ということを意識していません。ほとんどの人たちは、人生について何かを学ぶ必要はないと思っています。

しかし、日常での瞬間瞬間、私たちは「(ここではない)他のところにいたらいいのに」と思いながら過ごしているわけです。そこで、私は機械的な習慣となってしまったことを新鮮な方法でやることに興味を持っています。」
トースター
(ワークショップ案内より)
「仕事とサバイバルの恐怖」
仕事は愛に満ちたものでもありえます。が、ほとんどの人にとって、それは義務であり、望むと望まざるとに関わらず、やらざるをえないものです。私達は仕事について考えたときの、つまらない、嫌な気分にあまりにも慣れ切ってしまい、ほとんどその話題に触れたがりません。そして、機械的に物事をこなし、8時間、あるいはそれ以上の不愉快な時間の事は考えないようにし、「自由な時間」や休暇に焦点を当てようとしがちです。

仕事は遊びに満ちたものでもありえます。が、ほとんどの人にとって、それは義務であり、望むと望まざるとにかかわらず、やらざるをえないものです。私たちは仕事について考えたときの、つまらない、嫌な気分にあまりにも慣れきってしまい、ほとんどその話題に触れたがりません。そして、機械的に物事をこなし、8時間、あるいはそれ以上の不愉快な時間のことは考えないようにし、「自由な時間」や休暇に焦点を当てようとしがちです。
実際のところ、仕事をまったくの楽しみのため、愛のためにするものへと変容することは可能です。けれども、ここで問題になってくるのは、十分なお金を稼げないのではないかという恐怖です。このグループはあなたに、この恐怖をどう克服したらいいか、教えてくれるでしょう。まず瞑想のなかで内面に向かい、自然な衝動の起こってくる源に深く根を下ろしていきます。真の創造性の味わいを学ぶのです。男性性と女性性というふたつの極の不調和によって、私たちが自然な才能を妨害していないかを見ていきます。それから、いつであれ、愛から衝動がやってくるときには、金銭的にも報われ、認められるであろうことを信頼することを学ぶでしょう。
仕事と愛は、別々のものではありません。仕事は、あなたが存在に美しいものをもたらす方法であり、愛は内なる動機です。あなたの仕事に愛の香りが伴うとき、人々はその質をサポートし、生き生きと保つために、できることを何であれ、喜んでしてくれるということを知ることでしょう。 サガプリア

「細々とした家事などは重要で意味があるようには思えないかもしれないが,非常に単純に家事に関わることは,とても価値があるし役に立つことだ。単純さをそのまま知覚できれば,瞑想は一日二十四時間の仕事となる。もはや自分をひどく高圧的に見張る必要がなくなり,広大な空間感覚を体験するようになる。むしろあなたは状況を受け取る側になる。もちろんこのプロセスを批判したり見張ることはするかもしれないが,座って瞑想すればあなたはただあるだけだ。呼吸や他のテクニックを使うこともない。何かをつかみつつあるのだ。最後にはもう通訳,見張り人の必要もなくなる。すると言語は正しく理解されるようになる。」
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ「タントラ--狂気の知慧」より
めるくまーる出版、高橋ユリ子・市川道子訳



<気づき〉の瞬間を数えよ

Osho,あなたは、あらゆることに気づくようにと言います。それは、あらゆるもの、あらゆる行為にたいして目撃者であることです。私は仕事をしながら気づいていようとするのですが、すぐに<気づき>を忘れてしまいます。そして、自分が気づいていないことに気づいたとき、後ろめたさを感じます。何か間違いを犯したかのように感じます。説明していただけますか。


 これは、仕事中に気づいていようとする者にとって基本的な問題のひとつだ。というのも、仕事は自分自身を完全に忘れることを要求するからだ。そのなかに深く巻き込まれなければならない……あたかも自分が不在であるかのごとく。それぐらい全面的な投入がなければ、仕事は表面的なものにとどまってしまう。
 人によって創造された偉大なものすべては——絵に、詩に、建築に、彫刻に、生のあらゆる次元において——自分が全面的に巻き込まれることを要求する。同時に気づいていようとすれば、仕事は一級品にはなりえない。なぜなら、あなたがそのなかにいないからだ。
 だから、仕事中の〈気づき〉には途方もない訓練と実修が必要だ。そして、人はとても簡単な行為から始めなければならない——たとえば歩行のような。あなたは歩くことができる。そして、歩いていることに気づくことができる。一歩一歩が〈気づき〉に満ちている。食べる……。ちょうど禅寺で茶を飲むように。それは「茶の儀式」と言われる。なぜなら茶をすすめるために、目覚め、気づいていなければならないからだ。

 これは些細な行為であり、始めるにあたってはもってこいだ。絵や踊りのようなもので始めるべきではない。それらは、非常に複雑で奥深い現象だ。日常生活の簡単な行為から始めなさい。〈気づき〉に慣れ、それが呼吸のようになるにつれて——努力してはならない。臨機応変だ——そうなれば、どんな行為、どんな仕事をしながらでも気づいていることができる。
 だが、この条件を覚えておきなさい。それは無努力でなければならない。臨機応変でなければならない。そうなれば、絵を描き、作曲し、ダンスし、または武器を持って敵と戦いながらも、完全に気づいたままでいられる。だが、その〈気づき)は、あなたがいま試している〈気づき〉ではない。初心者の〈気づき〉ではない。それは、長い修練の末の開花だ。だが、ときには何の修練もなしに起こることもありうる。
 だが、それは稀にしか、特別な条件のものでしか起こらない。日常生活のなかでは、簡単な進路に従うべきだ。最初は、没頭することを必要としない行為に気づくがいい。おうおうにして、あなたは歩きながら考える。食べながら考える。〈考え〉を〈気づき〉に置き換えなさい。食べながら、自分が食べいることに覚醒していなさい。歩く——〈考え〉を〈気づき〉に置き換えて、歩きなさい。おそらく、歩行は少し遅くなり、優雅さをおびてくる。だが、〈気づき〉はこのような些細な行為のなかでも可能だ。そして、はっきり見れるようになったら複雑な行為を用いるのだ。

 いつの日か、全面的に行為し、なおかつ、日常行為に醒めていられるときがやってくるだろう。
 あなたは、「私は仕事しながら気づいていようとするのですが、すぐに〈気づき〉を忘れてしまいます」と言う。それは決意であってはならない。長いあいだの実修であるべきだ。〈気づき〉は自然に来なければならない。それは、呼ぶべきものではない。強いるべきものではない。
 「そして、自分が気づいていないことに気づいたときに後ろめたさを感じます」これは、まったく愚かだ。自分が気づいてなかったことに気づいたときには、幸せに思いなさい。少なくとも、今は気づいているのだからだ。私の教えには、罪悪感(ギルティ)の入る余地はない。

 罪悪感は魂の癌のひとつだ。あらゆる宗教があなたの尊厳、誇りを傷つけ、ただの奴隷にするために罪悪感を利用している、罪の意識をもつ必要はない。それは自然なことだ。〈気づき〉は非常にすばらしい。だから、ほんの数秒でも気づいていれたなら、それを歓ぶがいい。忘れていたときは無視しなさい。はっとして、「気づいていなかった」ことを思い出したら、その状態に意識を向けるのだ。少なくとも、数時間たって、〈気づき〉が戻ってきたことを幸運に思いなさい。
 それを後悔や罪悪感や悲しみにしてなならない。というのも、罪悪感や悲しみによっては救われないからだ。心の奥では失敗者だと感じる。そして失敗者だという感覚が自分のなかで固定したら、〈気づき〉は一層むずかしものとなる。

 焦点全体をかえなさい。〈気づき〉を忘れていたことに気づいた、それは素晴らしいことだ。そしたら、できるだけ長く忘れないようにすること。だが、再び忘れるだろう。そして、また思い出す。だが、その度ごとに、忘れている隙間は徐々に小さくなってくる。罪の意識をさけることができれば——これは基本的にはキリスト教のものだが——気づいていない隙間は短くなり、或る日、いつの間にか消えてなくなる。〈気づき〉は、まるで呼吸や、心臓の鼓動や、血液の循環のようになる——明けても暮れても。だから罪悪感をもたないように。罪悪感を持つことはない。木が、カソリックの司祭に耳を傾けないのはとても意義深いことだ。さもなければ、彼らは薔薇に罪の意識を持たせてしまうだろう。「なぜ、あなたには刺があるのか」そうなれば、風に、雨に、太陽に踊っている薔薇はとたんに悲しくなる。ダンスは消える。楽しさは消える。芳香は消える。いまや、刺だけが現実となり、傷となる。「なぜ、あなたには刺があるのか」

 だが、どの宗教のどの聖職者にも耳を傾けるほど愚かな薔薇の茂みなどない。ゆえに、薔薇は踊りつづけ、そして薔薇とともに刺もまた踊りつづける。
 存在全体に罪などというものはない。そして人に罪の意識がなくなると、彼は生という宇宙の流れの一部になるのだ。それが光明であり、生のあらゆることを歓び楽しむ純粋無垢な〈意識〉だ。光は美しい、そして暗闇もまた美しい。

 私にとっては、罪の意識がまったくなくなって初めて、人は宗教的になる。いわゆる宗教にとっては、罪の意識がなければ宗教的ではない。罪の意識が深ければ深いほど、より宗教的だ。
 人びとは、罪として、懺悔として、自分自身をいたぶる。断食する。自分たちの胸を血がでるまで拳で叩いている。このような人びとは、私から見れば精神病患者だ。彼らは宗教的ではない。いわゆる宗教は、「過ちを犯したら、最後の審判の日に神に裁かれるより自分で裁いたほうが良い」と教えている。最後の審判とは、無限地獄の間に永久に放り込まれることだ。そこには逃げ道はない、出口はない。ひとたび地獄に入れば、それでおしまいだ。
 人類全体が、大なり小なり罪の意識を待たされている。それは、あなたの目から輝きを奪った。あなたの顔から美を奪った。あなたの〈存在〉の優雅さを奪った。無益にも、あなたを罪人におとしめてしまった。

 憶えておきなさい。人はもろく、か弱く、過ちは人の常だ。「過ちは人の常」という格言を作った人びとはまた、「許すは神のわざ」という言葉を付け加えている。私は第二の部分には承服しかねる。
 私なら、「過ちは人の常、許すもまた人のわざ」と言う。なかでも、自分自身を許すことはもっとも大きな徳のひとつだ。なぜなら、自分自身を許さなければ世界中の誰も許せないからだ。それは不可能だ。傷や罪悪感でいっぱいなのに、どうして他人を許せるだろう。いわゆる聖者たちは、「あなたは地獄へ投げ込まれる」と言いつづける。実際には、彼らこそ地獄で生きているのだ。彼らには、神があなたを許すことすら認められない!

 偉大なスーフィの詩人、オマール・カヤ―ムは、世界的に有名な詩集「ルバイヤット」のなかで書いている。「酒を飲み、踊り、愛そう。あらゆる種類の悪を為そう。神は慈悲だ、彼は許す、と信じるから。罪は取るにたりず、赦しは計り知れない」
 祭司たちがこの本を知ったとき——というのも、当時、本は手書きだったからだ。印刷機械はまだなかった……。祭司たちは、彼が神を冒涜するようなことを書いているのを知るにいたった。「何も気にせず、好きなことを続けなさい。なぜなら、神は慈愛にほかならないからだ。70年の人生で、どれほどの罪を犯すことができようか。彼の赦しからみれば、それはまったく無に等しい」
 彼は国中に知られた有名な数学者でもあった。祭司たちは彼のもとへやって来て、言った。「何ということを書いているのですか。あなたは人びとの信仰を破壊してしまう。人びとに恐れを植え付けなさい。『神は正義にほかならない』と告げなさい。『罪を犯せば罰せられる。そこには慈愛はない』と」
 当時、オマール・カヤームの本は焼却された。写本が見つかるたびに、祭司たちによって焼かれた。というのも、この男は過激な危険思想を教えていたからだ。
 もし人びとのあいだに広まって、あらゆる人が生を歓び楽しみ始めたら、祭司たちはどうなるか。聖者たちはどうなるか。天国と地獄と神の神話はどうなるか。すべてはどこかに消えてなくなる。

 少なくとも私からみれば、オマール・カヤームは光明を得たスーフィ神秘家(ミスティク)のひとりであり、彼の言葉には計り知れない真理が含まれている。ただ「罪の意識を持つべきではない」と言うのだ。何をしようと、それが間違いであれば二度としてならない。誰かを傷つけるようなら二度としてはならない。だが、罪悪感を持つ必要はない。後悔する必要はない。懺悔して自分自身をいたぶる必要はない。
 焦点を完全に変えてほしい。気づいているのを忘れた数を数えるより、むしろ水晶のように透き通るほどはっきりと気づいている、その素晴らしい瞬間を数えなさい。それらの瞬間はあなたを救うにあまりある。あなたを癒し、治すにあまりある。充分に気を配っていれば、〈気づき〉はますます成長し、〈意識〉のなかに拡がりつづける。次第に、無意識の闇全体が消え失せる。
 初めのうちは、「働きながら同時に気づいているのは恐らく無理だ」と何度も思うかもしれない。だが言っておくが、それはたんに可能であるばかりでなく、きわめて容易にでいるのだ。ただし、正しい方法で始めること。最後から始めるのではなく、最初から始めるのだ。

 生において、私たちは出だしを誤るがゆえに多くを逃しつづける。あらゆることは、そのまさに始まりから始めなければならない。マインドには忍耐がない。何でも性急にしたがる。私たちは、梯子の段すべてを通過せずに頂点に達したがる。
 だが、それは完全な失敗を意味する。そして、ひとたび〈気づき〉というようなものに失敗すれば——それは小さな失敗ではない——恐らくは、もう二度と試みることはないだろう。失敗は痛みを伴うものだ。
 だから〈気づき〉のように貴重なものは何であれ、あなたはとても注意深く、最初の最初から始めて、しかも非常にゆっくりと進まなければならない。というのも、それは存在の神秘の扉全体を開くことができるからだ。それは、まさに神の寺院にあなたを連れて行くことができる。
 少しばかりの忍耐。そうすれば、ゴールはそれほど遠くない。





© Rakuten Group, Inc.